もう四月になり、入学式も終わったというのに花冷えのする朝、まだ眠たそうな顔で朝掃除をする生徒達の間を摺り抜け、物凄い勢いで廊下を駆けていく少年がいた。辺りに居た者達は迷惑そうな顔で、自分にだけはぶつからないようにと道をあける。その2秒後には彼よりもふた回りくらい大きな少年がこれまた凄い勢いで走ってきた。どうやら先程の彼を追いかけているようだ。何事?と二人の後姿を目で追っていると背後からまた別の少年が現れ、やはり彼らと同じようにあっという間に1階へ繋がる階段の方に消えて行った。先頭の少年の固まった表情から察するに、彼らが鬼ごっこを楽しんでいるとは思えない。二人目の少年が学校でも有名な暴ん坊ということを考えれば、明らかにターゲットとして先頭の少年を追っているに違いない。では第3の少年とは?
器用に階段の手摺りを伝い7段飛ばしで踊り場、次に1階に着地すると、正面玄関のコーナーを目指して一目散だ。「何で僕を狙うんだよぉ。捕まったらまたぶつんろうな。嫌だなぁ...。」朝礼が始まるまで逃げ果せることが出来ればセーフだ。目前には職員室、廊下を走ることは勿論禁止されているが、それどころではない。先生の姿も見えないしその横を全速力で駆け抜けた。「I君はどこまで追いついて来たのだろう?」心配になってチラッと後ろを振り返る。20m後方には口元に歪んだ笑みを浮かべながら追いかけて来るI君、そしてそれまで気が付かなかったが、何故かそのすぐ後を「やめろー!」と叫びながら走って来るN君がいた。玄関のコーナーを曲がり切ると、今度は後ろから「こらーっ」という男の先生の大きな声。そこから先、僕の後を追うものは誰も居なくなった。
そして、クラスの朝礼の時間。担任の先生は、まずI君をそして次にN君の名前を呼ぶと前に立たせた。そして、この二人は今朝、よりによって職員室の前を大きな音を立てながら走り回っていたと厳しく叱責した。I君は神妙にしながらも、「フン、いつものこと」という様子。ところがN君は級長を務める正義感の強いタイプ。皆の前で叱られるなんて初めての事だったに違いない。先生は「どうして走ったのか、何をしていたのか言いなさい。」と二人に迫った。ところが二人共押し黙ったままだ。I君は、僕をいじめる為だなんて言える訳がない。N君はどうして何も言わないんだろう。僕はだんだんドキドキしてきた。心臓の音が、やけにはっきりと聞こえ、頭の中ではさっきの「やめろー!」という声が何度もリフレインする。N君は明らかに"僕を助ける為に"I君を追いかけていたのだ。しかし先生はそんな事情など知る由もない。僕が彼らの前を走っていた事実さえ知らないのだから。僕はどうしたらいいか判らなくなっていた。「I君に追いかけられていて...」なんて言ったら、I君はもっと意地悪するんじゃないだろうか?でもN君は僕のために走り、弁明もしないまま叱られている。「違う!N君は僕を助けようとして、I君を止めようとして走っていたんです。」心の中で何度も叫んだ。しかし、どうしても声に出せない。沈黙の時が流れ、誰もがその重さに耐えきれなくなった頃、信じられないことに、あの芯の強いN君の眼から涙が溢れ出してきたのだ。僕は今までに感じたことの無い強いショックを受けた。あの涙は、I君と共に叱られた彼のプライドの痛みから来るものだったんだろうか?いやそれとも何も言えずにじっと黙っている僕への抗議の、自分が助けようとした友人に対する情けなさから来たものだったんだろうか?その涙を見て更に固まってしまった僕は、結局最後まで身動きも出来ず、心の中で何度も何度も「ゴメンナサイ」を繰り返すしかなかった。
その日を境に、僕はN君の顔をまともに見ることが出来なくなり、その後何十年も後悔の念に苛まれ続けることになる。たった一言「先生、N君は僕を助けようとして...」とあの時に言えてさえいれば、二人とも心にこんな大きな傷を残すことはなかっただろうに。(以下次回に続く)
2002年4月1日